その昔、大名行列・八代将軍の母・浄円院や篤姫様も通ったといわれる【姫街道】の故事にちなんで、当時の絢爛豪華な姫様の道中行列を再現した伝統行事が姫様道中です。
第1回姫様道中からさかのぼること2年、各地域ごとに開かれていたお祭りを、一つにまとめ、『町民皆が楽しめるお祭り』を作ろう!という事で、旧気賀町の自治会長や商工組合の組合長、青年団員や事業者らの発案により誕生しました。
昭和27年4月4日に【姫様道中】の第1回が開催され、現在は毎年3月の最終1土曜日に、豪華絢爛な時代絵巻で、毎年訪れる多くの観光客と、地元の皆さんを魅了します。
(※以前は毎年4月の第1土曜日・第2日曜日の2日間開催されていましたが、令和2年度開催第68回より変更となりました)
姫街道は、東海道と共に、見付宿から御油宿までを結ぶ街道で、東海道の脇街道として、多くの大名や姫様が通ったと言われています。
正式名称は「本坂通」。江戸末期頃「姫街道」と呼ばれるようになりました。
特に1707(宝永4)年の大地震の際、津波によって新居宿が被害を受けると、それまで東海道を往来していた大名行列を始め多くの人々が姫街道を利用しました。
姫街道は、本坂峠、引佐峠といった急な坂道が続きます。あまりの急な坂に象が悲鳴をあげたと言われるのが、「象鳴き坂」です。
でも、なぜこんな難所の多い姫街道を利用したのでしょうか?
はっきりとしたことは、わかっていませんが、
●東海道の【新居の関所】の取り締まりが厳しかった
●東海道の今切は船を使うため、
・全員が船で渡るには費用が掛かる
・雨が降ると船宿で何日も待たなければならない
・女性には船旅は怖いと思われていた
●(いまぎれ)という名称が離縁や別離を連想させるとして好まれなかったといった説があります。
1718(享保 3)年には、徳川吉宗の母である浄円院の一万人を超える行列が通り、1729年には、将軍に献上されるベトナムの大象が通りました。
また、幕末には天璋院篤姫が通ったとの記録もあります。
江戸時代、1587(天正15)年に、気賀の街は街道の宿と定められ、1601(慶長6)年、徳川家康により、通行者を監視するため、特に鉄砲の江戸への持ち込み、諸大名の妻女が江戸から出ることを監視するために気賀関所が創設されたと言われています。
気賀宿の入口だった、現在の気賀四つ角付近には、現在も気賀関所の屋根の一部(※浜松市指定文化財)が残っています。
また、浜松市北区役所西側には、平成2年に江戸時代の文書を参考に、ふるさと創生事業で再建された気賀関所があります。